活動一覧

第6章 レベルについて 2

  前章では少し脱線しましたが、要はあるレベルでは森羅万象そのレベルで構成する要素が安定しようとする働きが生じます。いくら練習しても進歩がないということは、突出して上のレベルを行こうとする力と、それをもとのレベルへ引き下ろそうとする力が拮抗する、せめぎ合っている状況であると言えます。

 

  これは膠着状況であると言えるとともに、一番先鋭的な不安定な状況と言えます。


  この状況は傍目で見れば進歩がない、上達しないという言うことができます。この時期、課題が急にできたり、ちょっと気を抜くとできなくなったりします。


  これはすべての事象について言えることができます。今、異常気象と言っていますが、これは何らかの新たな力が働き、今のレベルが次のレベルに移行する過渡期で、次のレベルに達する必要条件が揃えばまたそれなりに安定するはずです。次のレベルの達する前の乱高下と考えられます。次の安定したレベルが果たして人類が生存に適するかどうかは分かりませんが。


  人であれば人のすべての事象について、それ相応のレベルにあってそれが維持されています。生まれて寿命が尽きるまで各レベルがあって、それらのレベルの過程を経て成長して、老いてゆくのでです。


  卓球についていえば、各人各様のレベルで卓球しています。そのレベルは「こころ」と「からだ」に依拠し、その「こころ」と「からだ」に依拠して「わざ」があり、そのレベルに即した「こころ」と「からだ」と「わざ」があるのです。


  次のレベルに達しようとおもえば、「こころ」と「からだ」と「わざ」の必要条件の一つ一つを、課題をもって鍛えていかなければなりません。そして、一つ一つの課題を克服して、積み上げていって、必要条件が揃ってはじめて次のレベルの入り口に踏み込むことができるのです。


  必要条件だけでは、次のレベルの入り口に立つことができるだけで、これではこのレベルは安定しません。それだけでは不十分でそれに補完し、補充する条件が揃ってやっと安定した次のレベルに達することができます。これを十分条件と言います。


  油断して必要条件の一つでも維持できなくなる、欠落すれば、途端に元の木阿弥、下のレベルに引きずり降ろされることになります。これは「こころ」と「からだ」と「わざ」の一つでも外れれば、元のレベルに転落します。「わざ」だけの問題ではないのです。


  次のレベルに達するにはどうすればよいのでしょうか?レーニンはかって何が問題なのかを分かれば半分は解決したことになる。という意味のことを言っていました。


⑴ 自分の今のレベルをはっきりと自覚する
⑵ その自覚に基づいて次のレベルはどのようなものかをはっきり認識する。
⑶ そのレベルに達するための必要条件とは何かを良く分析する。
⑷ 一つ一つの必要条件を克服するため、項目別に課題をきめて、練習、鍛錬する。
⑸ 「わざ」だけでなく、「わざ」が依拠している「こころ」と「からだ」をそのレベルに合わせてトレーニングする。例えば、筋トレとかイメージトレーニングとかです。
⑹ 必要条件が揃い、次のレベルの入り口に立つことができたなら、これを安定、定着させ、確立させなければなりません。確立させるには別のトレーニングが必要となります。


  自分で上記の具体的な項目が分析できない、方針が立たないときはコーチに相談して、指示を仰いでください。
  私は哲学的なことはいえても、卓球については経験も少なく、技量もなく、理論も豊富ではありませんので、この任には負いかねます。


  積極的にコーチを探してください。運と縁があれば素晴らしいコーチに巡り合えると思います。人生の最大の幸せは立派な師匠に巡り合えることと、禅宗はおしえています。

 (続く)

2017年06月25日

第5章 レベルについて 1

  ここで述べることは一般世間ではオーソライズされておらず、あくまで私個人の見解ですので、前もって断っておきます。そのつもりで読んでください。


  一つの概念として進化・進歩・発達などで表現されているものについて考察いたします。もちろん、卓球が上達するということも含まれています。


  卓球の腕については、技能にレベルがあるということは、経験上だれでも認識できると思います。卓球だけでなく語学や勉強、習い事でも同じでことです。


  ひとが新たな能力を獲得しようと努力しているとき、その能力の習熟は努力・練習量に比例して右肩上がりで、直線的に上達しません。一生懸命努力しても一向に上達しない。自分の技量に疑問が湧いてきて、自己嫌悪になることもあります。


  もう一方では大した努力もしないのに思いがけなく突然にうまくなることもあります。その時は嬉しくなって私は大したものだ、天才だとうぬぼれたりします。

 

これはどういう事なのでしょうか?


  いろいろな課題を練習して、あるレベルから次のさらに高度なレベルに移行しようとする時、ご承知の通り一つの課題がうまくできても、それが即、身につかないのです。

 

  あるレベルから次の高度なレベルに移行できるにはいろいろな条件を必要とします。一つや二つの条件が獲得できたからと言って次のレベルには移行できないのです。


  あるレベルに達するためにはいくつかの条件がそろわなければそのレベルに入ることはできません。これを必要条件と言います。この必要条件が揃って初めてそのレベルの初期、初歩の段階に入ることができ、安定的にそのレベルで機能できるといえます。


  必要条件とはこの一つ一つが独立してばらばらに存在しているのでなく、一つ一つの条件は相互に依拠し、補完し合って、一つのレベルを形成しています。どれ一つが欠けてもそのレベルは機能しえないない関係と言えます。


  そして、この必要条件のどれ一つでも欠ければ元のレベルに戻ります。必要条件が揃っている間は何とかそのレベルに維持できるのです。


  見方を変えて言えば、次のレベルに到達しようと各項目を、課題をもって練習しますが、それが達成できたとしても、その項目が達成できただけ、言葉を替えれば必要条件の一つの条件が次のレベルの水準に達成しただけということです。


  全体から見れば、今のレベルの中で一つだけ突出しているだけなのです。一つのレベルの中では各条件がお互いに依拠しながら、有機的に関係があって、初めてそのレベルが維持されるのですから、一つだけ突出しても実際は十分に機能しないのです。


  レベルというのは、そのレベルを維持しようとする力、全体として安定しようとする力が働きます。安定しようとする力が働いている中で、突出しようとするものがあれば安定を乱すものとして、今のレベルに引き下ろそうとする力が働きます。


  出る杭は打たれる、打って効果がなければ「村八分」という排除の論理が働きます。排除しても自分たちのレベルを守ろうとしていることになります。(つづく)  

2017年05月19日

第4章 相手のこころに同化する事例

剣道について:
  私の近所に高校の剣道部の顧問の先生がおられます。その先生にこの話をして、どの様に受けをしているのか聞きました。その先生が曰く、攻撃しようとする側は, 相手の体勢のすきを読んで打ち込みにかかります。その時、受ける側は剣先がちょっとでも動いたとき、相手は何処に打ってくるかの意図を察し、防御の体勢をとり、打ってくる竹刀を払う、かわすなどの対処をしたうえで、反転攻撃に転じるというのです。
  こころは一瞬のうちにここまでを読み取って、からだにこれらの動きを指示するわけです。自分のこころでまず予測して(仮説をたてて)予測が当たれば良いが、もし外れたらもう一度予測し直さなければなりません。予測が当たった時点でからだに対処の指示が出せるのです。この経過をふめばもう間に合いません。間に合わないので感に頼って判断すれば、すなわち主観によって対処する故、精度が落ちます。
  やはり、一瞬のうちに相手のこころに同化して、相手の動きから相手のこころを読み込み、意図を読み込まねば間に合いません。自分のこころのフィルターを通して、相手を見ていたら到底間に合いません。


野球について:
   一流のピッチャーが投げるボールのスピードは最速で150㎞/時、通常でも130㎞/時とのことです。これだけのスピードで投げられたボールは、投手の手から離れた時点で球種を判断して、打ちに行ったら完全に振り遅れとなります。剣道の受けと同じです。


サッカー PK戦について
   サッカーのPK戦でも同じです。ゴールキーパーは相手が蹴るときに方向、スピード、回転を判断して取りに行けば、到底間に合いません。時々ボールの飛んでくる反対の方向に飛んでいます。読み違いの結果です。自分のこころで読んで対処すれば、確率の問題となり5割が精度となります。実際は10%~20%の確率でミスします。この一例でも自分のこころで読んで対処していないことが分かります。


卓球について
  鳥山さんが昨年水谷選手の動きを高速度カメラで解析したNHKのドキュメントで次のようなことを説明したと紹介してくれました。相手がラケットでピン球を打って、それを打ち返すのには0.2秒かかっている。水谷選手が目視してから、こころが打つこと指示して、からだが打つまでの時間が0.2秒かかるとのことです。

  ということは相手が打つ前に相手の意図をつかんで、スピード、方向、回転の球種を読み取り、しかもその球種からどのように反撃するかを決めて、こころがからだに指示を出しているのです。これは別の言葉で言えばためを作って待つということになります。
  こころは時間に制約されませんが、からだは時間に制約されます。この解析からどうしても相手が打つ前に、相手の意図をつかんで、球種を見切り、受けの体勢を取り、反撃の体勢、すなわちためを作って待っていなければならないということになります。きちんとためを作ることができれば、思い通りに反撃の体勢が作ることができるのです。
  これだけのことができなければ、当てに行く、合わせにいくという打法になります。当てに行けばコースもスピードも回転も制御できず、甘いボールしか返球できず、相手の反撃を喰らうことになるのです。(続く)

2017年04月18日

第3章 こころとからだ 

  からだは物質であるので、時間と空間に制約されますが、こころはからだと違い、物質ではありませんから時間にも空間にも制約されません。こころは過去でも現代でも未来にさえ、自由自在に、しかも瞬間に行くことができます。空間も同じように東京を思えば瞬間に東京にいることができ、ニューヨークに行こうと思えば、瞬間に行くことができます。からだは現在にしか存在できず、しかも時間と空間に制約されています。こころは時空の制約なしに瞬間移動できるということです。こころは本来、自由自在なのですが、自意識がその自由自在のこころを縛っているのです。そう、自由自在の自在は自在流卓球の自在です。
  ひとの認識は、まず今起こっている事象にたいして感受し、不可解、腑に落ちないと思ったら、まずなぜだろうと思います。いろいろと考えて、一つの仮説を立てます。仮説に沿ってデーターを集めて、そのデーターが仮説に対して適宜である、すなわち実証できれば、その仮説は正しいとされ、事象はこのように成り立っていると認識します。適宜でなければ、その仮説が間違っているので、新たな仮説を考えてさらにデーターを集め実際に合致するか検証するのです。ひとの認識はすべてこの思考方法で成り立っています。
  卓球について話を戻します。相手のこころに同化して、まず相手の動作、表情から、相手の意図を判断します。この時、客観的に相手の動作、表情を読み取ろうとするか、主観的に読み取ろうとするかが分かれ目となります。
  主観的に、すなわち利己心、自意識、自己中心の考え、勝とう勝とうというこころで、相手のこころを読もうと思っても、自分の先入観を持ったフィルターを通してみているので正しいデーターが得られないのです。客観的に読み取るためには自己のこころを抑えて、相手のこころに同化しなければ読み取れないのです。
  よく無心で当たれと言いますが、無心とはこころを無くすことではなく、自分中心のこころをコントロールして、自分中心のフィルターを通して相手を見ないようにすることです。フィルターを通ったデーターは実際を反映していません。そこから導き出された判断は実際と合致しないことになります。結果はミスとなるのです。在るがままを見るのです。
  この表情、この動作なら、このような打球が来ると読み取り、判断するということは、そのように仮説を立てることです。実際にそのとおりならばその仮説が正しいということになります。来なければ仮説が間違っていることになります。何度も間違いを修正し、学習していって、正しい仮説を打ち立てることができれば、正しい認識、正しい判断を得ることができます。これは普通に言えば納得するということで、仏教でいう悟りということになります。
  相手の意図、判断がわかれば、よりはっきりと球筋が見え、その球筋にそって体を移動させ、わが身を受けの体制にもっていけばよいのです。さらに反撃の意図を決定し、相手の動きを読み取って、相手の弱いところ、苦手なところ、態勢の整っていないところにむけて、コース、スピード、回転を決めて、エネルギーをため、瞬発的にそのエネルギーを相手に開放します。
  これらはすべてこころがからだに命ずるのです。この判断し、命ずるのはこころゆえ、時間に制約されず、一瞬のうちになされます。時間に制約されていないがゆえに手順などはないのです。何度も間違いを修正し、学習することにより、自己中心のフィルターから解放されて、正しい認識、正しい判断が得られれば、躊躇することなく一瞬に判断を下すことができ、適時に、適切な打球を打つことができるのです。
  わざ、からだを上達するのは練習を重ね、鍛錬して初めて得ることができますが、こころも同じで鍛錬すればするほど、より正しい認識、より正しい判断を得、一瞬に判断することができるのです。我々は往々にしてわざを鍛えることに目を向けがちですが、こころの鍛錬も同じようにするべきだと思います。(続く)

2017年04月07日

第2章 こころとからだについて 2

  相手の動き表情から相手のこころを読み、相手の意図が読み取るようになるためには、まず相手のこころに同化する必要があります。母親と赤ちゃんの例で示したように母親は自分のこころを赤ちゃんのこころに成りきって、なにがあって泣いているのかを探しているのです。けっして自分のこころ=大人のこころで泣いている赤ちゃんがどうして泣いているのかを分析し探っているのではないのです。
  相手のこころを読み取ろうと思えば、相手のこころに同化しなければ読み取れません。自分の利己心、自意識、自我心、自己中心(すべて同じ意味ですが)のこころでは相手のこころを読み取れません。まずは相手の立場にたち、相手の考えに同化するように努めるのです。そうすれば、だんだんと相手が何を考えているのかわかってきます。
  卓球という特殊な環境では、相手が何を考え、何をしてくるのかは限られてきます。ましてや、よく知っている人なら、相手の技も体力も予備知識は十分です。よく知らない選手、相手でも、やることはピン球をラケットで打つだけですから、それに限定して読み取ればよく、そんなに難しくはないはずです。子育てよりはずっと易しいはずです。
私はこのことに気づき、相手の意図をまず読み取ろうとしましたが、意図を読み取る前に打球が迫ってきます。どの様にして相手の意図を読み取ればよいかとずっと考えて来ました。どうもうまく行きません。そして、相手のこころを読み取ろうとせず、まず相手のこころに同化しようと考えました。それでも、はじめは同化できず、相手の動きについていくことができませんでした。
  そこで、相手が打つときに「シンクロ」と呪文を唱えることにしました。「シンクロ」とはシンクロナイズ・スイミングのシンクロです。相手のこころに同期するようにこころに言い聞かせる呪文です。
  何度も「シンクロ」と呪文を唱えながら、まず相手のこころに同化するように努め、同化しようとするこころで相手の表情、動きを見つめているうちに、相手は何を意図しているのか、ぼんやりと見えるようになってきました。相手の動き=こころに同化することにより、相手の動きから相手のこころが読めるということを確信いたしました。
  相手の意図、判断がわかれば、よりはっきりと球筋が見えるようになります。球筋が見えるようになれば、球筋に前もって体を移動させておけばよいのです。まず移動させておいて、それに対応して、わが身を受けの体制にもっていけばよいのです。そうすれば相手の打球は吸い込まれるように我がラケットに向かってきます。
  球筋に沿って受けの体制にもっていくということは、自然に初歩的、無意識的に「ため」の形になっているのです。そう「はじめ」の章で紹介した「ため」なのです。
この「ため」を意識的、積極的に取り入れると、相手の意図が読めて、球筋が見えて、体を球筋に沿って移動し、相手の打球に対して反撃の体制がととのうことになります。相手のこころに同化して、相手の意図を読み取れば、相手の打球に対しての対処が見えてきます。
  「ため」はためている瞬間に反撃の意図、すなわち戦術、戦略を決定し、相手の動きを読み取って、相手の弱いところ、苦手なところ、態勢の整っていないところにむけて、コース、スピード、回転を決めて、エネルギーをため、瞬発的にそのエネルギーを相手に開放します。「ため」があれば自分の最も理想的なフォームで、最も力強く、最も正確で、しかも余裕を持って攻撃でき、レシーブもできるのです。(続く)

2017年03月30日

第1章 こころとからだについて 1

 分かりやすいようにコンピューターに例えて「こころ」と「からだ」について説明します。こころとはコンピューターではソフトと同じです。ソフトはプログラムで成り立っていますが、物質ではなく、あくまで論理です。
物質的にはソフトは単独では存在できず、ハード=物質に依拠して初めて存在できるのです。例えば紙とかハードディスクとこメモリーとかに書き込まれて初めて有用となります。このプログラムはインターフェースをつうじてCPUとかディスプレーとかキーボードというようなハードに書き込まれ、ハードがソフトにつながりソフトの指示の下でまたハードが起動することになります。
   コンピューターはソフトがなければタダの箱といいます。また、ハードがなければ、いくら優秀なソフトであっても全く機能できないことは自明です。これは言い換えればソフトはハードに依拠し、ハードはソフトに依拠して、互いに機能してコンピューターとして存在できるのです。
   人は同じように「こころ」=ソフトと「からだ」=ハードから成り立ち、互いに依拠しながら人として存在しているのです。からだが不調ならこころは晴れず、こころが暗ければ体は活発明朗に動けない道理です。
   こころはこころとして存在するには、からだを通して始めてこころとして働くことができるのです。ということは相手のこころは相手のからだを通じてしか知ることができません。まず、こころが動いて、判断し、意図してからだに動きを指示します。相手のこころは相手の動き、表情を通じてしか、相手のこころ、意図を読むことができません。
   相手の動き表情から相手のこころを読み、相手の意図が読み取るようになるためには、自分のこころを鍛えなければなりません。からだと同じようにこころも鍛えれば上達していくのです。人はこころもからだも鍛えれば鍛えるほど発達、成長するものなのです。
   これは何も難しいことではないのです。赤ん坊が泣きます。母親は鳴き声を聞いて、赤ん坊がなんで泣いているのか神経を澄まして聞き、表情を読み取って何を訴えているのか探ろうとします。これはとりもなおさず、赤ん坊と同化して、赤ん坊のこころと一体となって、赤ん坊のこころを読みとっているのです。
   この子はお腹がすいているのか、小便をして気持ちがよくないのか、寒いのか、寂しいのかを読み取って、今は忙しいからこの仕事を片付けてからとか、すぐにお乳を上げようかとか、抱っこをして時間稼ぎをしようかと今度は自分のこころで判断します。
母親は、赤ん坊は自分の分身ですから、非常な愛情で真剣に赤ん坊のこころを読み取り、経験を重ねることで学習し、赤ん坊の泣き声ですぐに赤ん坊のこころを読み取れるようになります。そして子育てのレベルが、子育てのこころが赤ん坊の成長に伴って、どんどん成長してベテランとなるのです。
   卓球では、強くなりたい、うまくなりたい、負けたくないとの強い意志が、母親の子に対する愛情と同じように成長の原動力となり、学習能力を高めることができるのです。強くなりたい、うまくなりたい、負けたくないという意思が薄弱なら、学習能力はのびず相手のこころをより深く読み取るようになるのも難しいでしょう。
   スポーツに限らず、対戦するには、まず相手の意図を読み取ることが最初にすべきことです。相手の意図を読み取って、対処するというのが、すべて生きる上での大前提大原則となります。孫氏いう「己を知り、敵を知れば百戦危うからず」は敵の情報、状況を知るというのが大切だということですが、一番大切なのは敵の意図を読み取るということにつきます。(続く)

2017年03月28日

始めに

 楽友シングルの会の「コンセプト」は中高年の卓球道場です。このコンセプトに沿って、この道場の理論的思想的な面をこの「自在流・卓球」のページで述べていくつもりです。
この内容に疑問、異論、納得いかない点がありましたら、入会希望、お問合せのページから投稿下さい。このページに掲載してみんなで議論していきましょう。

 道理の通った議論は精神すなわち「こころ」の鍛錬です。スポーツは「心技体」の一つでも低レベルであれば、他が高レベルでも、結果はその低レベルの状態になるのです。我々は往々にして「わざ」の鍛錬にかたよりがちですが、「こころ」「からだ」「わざ」をバランスよく鍛えて一つ上のレベルに到達できるようにお互いに切磋琢磨しましょう。

 我が家の宗教は曹洞宗すなわち禅宗です。自在流・卓球の思想的基盤は仏教とくに禅にあります。仏教に関しても良ければ一緒に討論、議論することは歓迎します。

 道場ですので、ただ、卓球がうまくなりたい、強くなりたい、負けたくないというだけでなく、卓球道を極めるのが目標です。何が卓球道かということですが、これはみんなで究明していきたいと思います。

 自在流・卓球は型にはまらない自由自在の卓球という意味です。自在流卓球のスタイルは基本的に「まもり」の卓球です。相手の攻撃意図を読み取り、その攻撃に適切に対処して、敵の弱点、スキを攻めます。又は返球には再攻撃されないように敵の不得意なところをつきます。そして甘い返球がきたら、即、敵の弱点を攻撃します。けっして、一本調子ややみくもに攻めません。最初から攻撃を仕掛けないのです。

 奥儀は「ため」にあります。普通は勿体をつけて奥儀はなかなか言わない、見せないのですが、敢えてわかりやすくするため奥儀を公開します。これから「ため」につては随所に出てきますので、自在流・卓球は、まず奥儀は「ため」にあることを頭の中に入れておいてください。

 こんな調子で随筆的に思ったことを書いていきます。一段落したら読み返してまとめるつもりですので、取りあえずはこのように書いていきます。

 よろしくおねがいいたします。(終)

 

2017年03月11日