第3章 こころとからだ 

  からだは物質であるので、時間と空間に制約されますが、こころはからだと違い、物質ではありませんから時間にも空間にも制約されません。こころは過去でも現代でも未来にさえ、自由自在に、しかも瞬間に行くことができます。空間も同じように東京を思えば瞬間に東京にいることができ、ニューヨークに行こうと思えば、瞬間に行くことができます。からだは現在にしか存在できず、しかも時間と空間に制約されています。こころは時空の制約なしに瞬間移動できるということです。こころは本来、自由自在なのですが、自意識がその自由自在のこころを縛っているのです。そう、自由自在の自在は自在流卓球の自在です。
  ひとの認識は、まず今起こっている事象にたいして感受し、不可解、腑に落ちないと思ったら、まずなぜだろうと思います。いろいろと考えて、一つの仮説を立てます。仮説に沿ってデーターを集めて、そのデーターが仮説に対して適宜である、すなわち実証できれば、その仮説は正しいとされ、事象はこのように成り立っていると認識します。適宜でなければ、その仮説が間違っているので、新たな仮説を考えてさらにデーターを集め実際に合致するか検証するのです。ひとの認識はすべてこの思考方法で成り立っています。
  卓球について話を戻します。相手のこころに同化して、まず相手の動作、表情から、相手の意図を判断します。この時、客観的に相手の動作、表情を読み取ろうとするか、主観的に読み取ろうとするかが分かれ目となります。
  主観的に、すなわち利己心、自意識、自己中心の考え、勝とう勝とうというこころで、相手のこころを読もうと思っても、自分の先入観を持ったフィルターを通してみているので正しいデーターが得られないのです。客観的に読み取るためには自己のこころを抑えて、相手のこころに同化しなければ読み取れないのです。
  よく無心で当たれと言いますが、無心とはこころを無くすことではなく、自分中心のこころをコントロールして、自分中心のフィルターを通して相手を見ないようにすることです。フィルターを通ったデーターは実際を反映していません。そこから導き出された判断は実際と合致しないことになります。結果はミスとなるのです。在るがままを見るのです。
  この表情、この動作なら、このような打球が来ると読み取り、判断するということは、そのように仮説を立てることです。実際にそのとおりならばその仮説が正しいということになります。来なければ仮説が間違っていることになります。何度も間違いを修正し、学習していって、正しい仮説を打ち立てることができれば、正しい認識、正しい判断を得ることができます。これは普通に言えば納得するということで、仏教でいう悟りということになります。
  相手の意図、判断がわかれば、よりはっきりと球筋が見え、その球筋にそって体を移動させ、わが身を受けの体制にもっていけばよいのです。さらに反撃の意図を決定し、相手の動きを読み取って、相手の弱いところ、苦手なところ、態勢の整っていないところにむけて、コース、スピード、回転を決めて、エネルギーをため、瞬発的にそのエネルギーを相手に開放します。
  これらはすべてこころがからだに命ずるのです。この判断し、命ずるのはこころゆえ、時間に制約されず、一瞬のうちになされます。時間に制約されていないがゆえに手順などはないのです。何度も間違いを修正し、学習することにより、自己中心のフィルターから解放されて、正しい認識、正しい判断が得られれば、躊躇することなく一瞬に判断を下すことができ、適時に、適切な打球を打つことができるのです。
  わざ、からだを上達するのは練習を重ね、鍛錬して初めて得ることができますが、こころも同じで鍛錬すればするほど、より正しい認識、より正しい判断を得、一瞬に判断することができるのです。我々は往々にしてわざを鍛えることに目を向けがちですが、こころの鍛錬も同じようにするべきだと思います。(続く)

2017年04月07日